遠い汽笛
鉄 道 コ レ ク シ ョ ン

◆◆ 東北にブラストの響きを追って(3章)「秋田機関区」◆◆
バックの音は、1975年12月に録音した夕張線のD51 貨物列車です。


1 章 2 章 3 章 4 章

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尾登駅、荻野駅 会津若松機関区 秋田機関区、 2743列車 深浦、行合崎、矢立峠


12月29日
 品川 (23:21発)---------------臨時急行“ばんだい5号"(クモハ455-1)-----(5:32着,24分遅)会津若松

12月30日
 会津若松 (5:42発)-------------------221D(キハ45-36)----------------尾登 (6:28着)
 尾登 (10:52発)-----------------------226列車---------------------荻野
 (10:59着)
 荻野 (13:26発)--------------------228D(キハ45-32)------------------会津若松 (14:23着)
 会津若松 16:28発)-------------230列車(オハ61-2721)-----------------郡山 (18:30着,4分遅)

12月31日
 郡山 (23:24発)----------------6401列車 臨時 急行“おが2号"----------秋田 (9:10着)
 秋田 (13:58発,29分遅)-------833列車 C6119(オハフ61-205) -------------東能代 (15:31着,21分遅)
 東能代 (15:44発,23分遅)-------2743D(キハ11-13、キハ22-340) ------------深浦 (17:24着,23分遅)

1月1日
 深浦 (15:03発)------------------1736D(キハ20-217)----------------- 東能代 (16:50着)
 東能代 (17:40発,6分遅)-------421列車 (D51900 オハ35-58)-------------陣場 (19:43着,30分遅)

1月2日
 陣場---------バス-----------碇ケ関(14:31発)----1135D(キハ22-341)-----弘前(14:59着)
 弘前 (15:03発)----------------635列車 (スハ32-2684)-----------------青森 (16:17着,2分遅)

1月3日
 青森( 19:00発)----206列車 急行“十和田5号"(ED75,EF80,ナハ11-2031)----東京 (6:53着)

【急行 おが2号】
待合室のアナウンスで臨時の“おが2号”の運転を知ったので、23時24分の臨時急行“おが2号”で行くことにする。
ホ−ムに出てみると10人位の乗客しか待っておらず、「よかった。臨時列車なので比較的空いているんだな。」とほっとした。 しかし、いざ列車が入って来て驚いた。空いているどころか、車内はいっぱいの人。この列車で行くと“おが3号”より1時間43分早い、6時53分に着く。“おが3号”も同じ混み具合だろうと判断し、無理して乗車することにした。
車内は土産物を持った帰省客でいっぱいで、デッキまで人が溢れている。無理やり乗り込み、やっと自分の場所を確保したがじっと立っているのがやっとである。
今夜こそどうしても寝ていきたいのだが、この混みようではとても寝られそうにもない。おまけにこのデッキでは、数人の人が一升ビンを開けて酒盛りをしている。既に酔っている人もいて賑やかである。大変な車輌に乗ったものだと後悔したが、もうどうする事もできない。
暫くすると、その中の学生らしい人が私に声を掛けてきて、「どこまで行くのか、どこから来たのか、学校はどこなの?」などと質問し、「まあ、長い旅だから楽しくやりましょう。」と自分で抱えていた一升ビンから酒を紙コップに注いでくれた。
眠くて仕方がないが、この調子ではとても寝られそうにないと観念し私も仲間に入ることにした。学生は駒沢大学商学部の3年生で、横手まで行くそうである。
その他、周りの人もふるさとへの土産物を持って、正月休みに帰る出稼ぎの人や学生が多い。久しぶりの故郷に帰るために会話も明るくはずんだ感じがするが、方言が多、私には殆ど理解出来なかった。
車内を覗き込むと座席は勿論、通路までいっぱいで通ることも出来ないくらいに混んでいる。
通路にいる人の多くは男性や若い女性である。年配の人や家族連れは早くから指定券を確保したのだろうか、暖かい座席で気持ちよさそうに寝息をたてている。
それにしてもこの列車は臨時のせいもあるが、やけに他の列車に追い抜かれる。そのたびに10分から20分停車する。まるで鈍行列車と同じである。
それに、この古い客車(形式は多分スハ32か33だと思うが)のデッキや幌は隙間だらけでドア−もきちんと閉まらない。その間から冷たい風や雪が時折舞い込んでくる。その雪が壁や足もとで白くこびりついている。
車内とデッキではまさに天国と地獄である。酒でも飲んでいなければいられない気持ちがよくわかる。
列車は何度も何度も停車し追い抜かれたり、上り列車と交換するために5分や10分ならまだしも、20分から30分も停車することがある。我々デッキにいるものにとっては辛い。
その上、ポイント故障で40分も停車したのには全く閉口してしまった。冬でなければホ−ムにでて足腰を伸ばすことができるが、この季節ではドアを閉め、じっとしている以外にない。
しかし、その停車時間が役に立つこともある。ある小さな駅で15分程停車した後、列車が発車してホ−ムの端の方を見るといくつか黄色く雪が溶けた部分がある。車内が混んでトイレにいけない人が窓から這い出してホ−ムの端に用を足したあとである。
私もある駅でドア−を開け雪の中で試みたがなかなかいい感じであった。
午前5時頃、横手の少し手前で少しずつ乗客が降り、空いてきたので車内の温かい方に移ることができ、座ることが出来た。座ると直ぐに寝てしまったらしい。

【秋田機関区】
ふと何かに当たって目をさますと車内にはゴミの他には誰もいなかった。
外をみると《あきた》の駅表示板が見える。あわててザックを持ち降りようとしたが頭が重い。
手に力も入らない。両手でザックを抱えるようにして外に出たが歩くこともできず側のベンチにドッサと倒れるように座りこんでしまった。
一緒にいた学生も他の乗客も何処で降りたか全く記憶にない。時計をみると9時10分。
予定より2時間ほど遅れて到着したのか、それとも長い間、到着していたにもかかわらず車内で寝ていたのかわからない。
しかし、1人で寝ていたのならば駅員が起こしてくれてもよさそうなものだが。
秋田についての第一声は、言葉にならない溜め息であった。
ホ−ムの目の前にD51、DD51があるがカメラを向ける気にもなれない。しばらく放心状態でいたが、やっとのことでザックを肩に掛け改札口を通りステ−ションビルに入る。寒くて辛くて長い夜汽車がやっと終わった。
待合室を捜し入ってみるが人でいっぱいであった。テレビではメキシコオリンピックの録画を放映しているが見る気にもなれない。やっと一番奥に空いている椅子を見つけドッカと腰をおろす。
側の売店には秋田の名物であるコケシ、杉細工、ナマハゲの人形などが販売されている。
売店から牛乳を買ってきてクラッカと、あずきのカンズメを出して食べるが途中で気持ちが悪くなってきたので止めてしまった。
疲れた。だるい。頭が重い。列車の遅れや、出発、到着の案内をする駅放送の声が頭に響く。
30分程そこにいて、やっと腰をあげる。自分の意志ではなく自然に体が動いていくような感じである。
外に出ると空はどんより曇っていて今にも雪が落ちてきそうである。体が自然と秋田機関区の方へ向いている。路面の雪が凍って滑りやすい。登山靴なので余計に滑りやすい。凍結した路面に慣れていないので気を付けなければならないと思っている時、見事に転んでしまった。
駅前の比較的人通りの多い所である。ザックを背って、登山靴を履いている者がコケテしまった。恥ずかしかった。周りの通行人は別に気にしている様子はなかったが、すぐに立ち上がり何事もなかったように歩きだした。
暫く行くと秋田鉄道管理局のビルが見える。列車ダイヤを送ってくれたところである。思い出してダイヤを調べてみると、ない。一瞬、顔が青ざめた。
さっき転んだ所で落としたのに違いない。慌てて戻ると果たして落ちていたのでほっとする。

当時の秋田駅(現在は新幹線開業で新しいビルになっている)

再び戻り、奥羽本線の踏切りに差しかかると遮断機が降りてくる。秋田駅の方を見るとC11の牽く客車の出発である。急いでカメラを出し撮影する。 C11が通過するとすぐに羽越本線のD51の貨物列車が通過する。
踏切を渡り、機関区の事務所で見学手続きを行う。秋田機関区は会津機関区より大きい。
レールが何本も並び、その中に石炭置き場、その下にはクレーン、給炭塔、給水塔が立ち並んでいる。その下には煙室戸を開け、シンダー(スス)を抱いているD51104号機。その横には安全弁から上記を吹き出しているD51100号機。そして81系、58系などもいる。扇型の機関庫の中にはDD51,D51,C58,待機線にもC11,C61,9600,DF50など、なかなか種類が多くワクワクする。
機関庫の横の「無煙化」と書かれた大きな文字の下でC61がさかんに黒煙を吐いていた。クレ−ンで石炭を積みこんでいるSL。灰を落としているSL。ススを払っているSL。給水を受けているSLなど賑やかである。すっかり準備、点検が終わると汽笛を鳴らし、仕業についていく。
『蒸気機関車は手間暇をかけないと思ったように走ってくれない。まるで生き物のようだ。蒸気機関車は人間が作った一番人間に近い機械だ。』といった言葉を思いだす。

秋田を発車するC11249と停車中のC11204.

待機中のC6119とD51785 後方に特急つばさも見える

煙戸を開けているD51104と左側はD51100


ギースル煙突のD51570

D511099

給水を終え始業につくD51909

D51104


約3時間程、彼等の姿を眺めて引き返すことにした。帰る途中、先程、煙室戸を開けてススを出していたD51104が準備を終わり待機線に出てきたので彼の顔をアップで撮影する。
駅に戻り、秋田ステ−ションビルの中をブラブラするが、何も変わったものも、おもしろい物は特にない。都会のステ−ションビルと変わりはない。
今日は、13時29分の新津発、青森行き列車で東能代(ひがしのしろ)まで行き、そこから五能線に乗って深浦(ふかうら)に宿泊するつもりだ。3日ぶりに畳の上で寝られると思うと嬉しくなる。
13時29分の青森行き833列車は、ダイヤによると青森区のC60が牽引することになっている。このC61は、青森機関区を10時29分に出発して青森駅で客車を連結。11時20分の上り444列車を牽いて、秋田に17時05分到着。
秋田で4時間休憩の後、秋田発21時07分、1425列車を牽いて東能代着22時30分。
東能代で6時間半休憩した後、翌日の5時05分、440列車で秋田に6時29分到着。
秋田で7時間の間に検査、整備をした後、13時29分、私がこれから乗ろうとする833列車を牽いて、青森へ帰る。
つまり、青森区のC61の3仕業は、約34時間で一つの仕事を終わることになる。その全走行距離は485キロである。
そういえば先程機関区で見かけたC6119は、3仕業の機関車かもしれない。
待合室でテレビを見ていると、構内放送が833列車が20分遅れて到着することを案内している。40分位時間があるので駅食堂に入り、肉ソバとお酒を注文する。お酒は美味しかったが、肉ソバのまずかったこと。
少し早めにホ−ムに出て青森寄りの一番端の方に並び機関車でも眺めることにする。
秋田駅は、1番線の前に男鹿線用の0番線がありディ−ゼルカ−が1両、静かに停まっている。
反対側のホ−ムにD51の牽く長い貨物列車が入ってきた。シュ−、ガチャ、ガチャ、ガチャ−ン。エア−ブレ−キと連結器の音が広い構内に響く。ズズズズ−ン。機関車が停まる時にでる独特の音をさせ停車する。
プシュ−。すぐ連結手がエア−ホ−スをはずし連結器を開放する。
D51は長い旅路の疲れをいやすため機関庫に去っていった。
空は北国特有の低く重たい灰色の雲が広がっていたが雪は降っていない。しかし、北風が非常に冷たい。というより痛い感じである。ホ−ムの上に架かっている乗車位置を示すプラスチックの板がカタカタと音をたてて揺れている。
その音が一層寒さを感じさせる。
やがて連結手が来て停車位置を示すところに立つ。その位置が私より3〜4両分位後ろの方なので「おや!おかしいな。停車位置を示すのならば私より先の方に立たなければならないのに。」と少々心配になり頭の上を見ると確かに“普通列車乗車口”と書いてある。
定刻より20分遅れて、新津発、羽越本線経由の833列車はDF50に牽かれて入線してきた。
列車は先程の連結手の所で停まったので慌ててザックを持って移動しようとしたが客車増結だと判断し、その場所を動かなかった。数人の人は急いで後方へ走っていったが、すぐに戻ってきた。
DF50は客車から開放され、ゆっくりと機関庫に向かう。車体の所々に凍りついた雪が寒い北国を走る厳しさを物語っている。
暫くすると蒸気機関車が客車4両を押して進入してきた。ガチャ−ン。連結しすぐエア−ホ−スをつなぐ。プシュ−。ブレ−キテストを行い、「ホ−スオ−ケ!」連結手が確認。幌を掛け渡り板をかける。
増結した4両のうち2両はホ−ムから外れている。
私は3両目から乗り込み機関車のすぐ後ろの1両目(オハフ61−205)に行く。
機関車は、はやりさっきのC6119号機である。
1両目の車輌には私の他に3人の乗客しか乗っていないのでご機嫌である。ゆっくりすることができるしブラフト音も心ゆくまで楽しむことができる。しかし一つ心配があった。定刻にこの列車が出発すれば数分の待ち合わせで五能線2743D列車に乗ることができるが、20分も遅れてしまうと不安である。
多分本線待ち合わせになると思うが、もし乗れないと東能代で2時間位待たなければならないし深浦には21時近くになってしまう。

【833列車 奥羽本線】
C6119の牽く833列車は、定刻の13時33分より25分遅れの13時58分、米と酒の町、秋田を出発した。
凄まじいドレイン音とともに発車した列車は、市街を北西に向かう。駅を出るとすぐに広大な操車場の中を進む。操車場の中にはD51やC11が数両、体を休めている。
土崎市内に入るとすぐに国鉄土崎工場が見えるが今日は大晦日なので作業は行われていない。雪に埋もれた赤く錆びた車輪が幾つも転がっていた。土崎を過ぎると広々とした田園の中を北上してゆく。白一色の寒々とした刈り田に列を作って並んでいる藁子積が列車を見守っている。
上飯島、追分を過ぎ大久保あたりから左手に男鹿半島の寒風山や本山の山々が見えた。
羽後飯塚付近では車窓いっぱいに干拓工事の進んでいる八郎潟が広がっている。列車はそのすぐ側を軽快なブラフト音を響かせて奥羽本線を北上する。
車内の乗客はまだ4人だけである。話をする人は誰もいない。車輌の前のドア−の向こうにC6119のナンバ−プレ−トを付けたテンダ−が左右に揺れ、その度に連結器のきしみ音が聞こえる。
機関車のブラフト音、列車のきしむ音、そして、規則正しいレ−ル音が聞こえるだけである。時折、機関車の煙に混じって雪煙りが窓の外を流れる。
列車はブラフト音に合わせて前後に揺れる。ガクンガクンと始めは大きく速度が早くなるにつれて小刻みになる。遅れを取り戻そうとカットオフが早いのだろうか。機関車の振動を直接感じているようで気持ちが良い。
私は右手で顎を支え遠くの山並みを見ながらその揺れに身をまかせていた。心地好い気分だが不思議と眠くなかった。
前のドアの向こうで汽笛を鳴らし象のようなお尻をしたテンダ−を上下左右に揺らし列車を牽いている蒸気機関車を見ながら、『今こいつは一体何を考えているのだろうか。静かな雪国の中を黒い図体をして汽笛を雄叫びとし、黒煙を吹き上げドカドカと地を揺るがし、一体何を考えて走っているのだろう。』などと蒸気機関車を擬人化しながら空想していた。
場内進入の汽笛一発。鯉川駅到着。鯉川駅を出ると車掌が来たので五能線の接続状態を確認する。「この列車は、現在22分遅れていますからどうなるか分かりませんが、多分本線待ち合わせになると思いますが、後で問い合わせてみます。」の返事。
森岳駅を過ぎてしばらくすると、車内放送で「五能線は、この列車の到着を待って発車します。」と伝えてきた。ひと安心だ。列車は右に大きく曲がり、東能代駅2番線に定刻より21分遅れて到着した。
五能線1743D弘前行きは既に反対側のホ−ムに入線していた。私は列車の一番前に乗っていたので、6両編成の短いディ−ゼルカ−に乗車するには、かなり後ろに戻らなければならない。重い荷物を背って雪のホ−ムを走り、最後部の車両に飛び乗った。

お前は何を考え走るのだ

静かな雪国の中を黒い図体をして

黒煙を吹き上げ、ドカドカと地を揺るがし

雪を舞い上げて、お前は何を考え走るのだ

残り少ない余命を精一杯生きる為なのか

余りにも短い命を惜しむためか

遠く過ぎ去った思い出を回想するためか

それとも今の自分の使命に得意になっているのか

何を考えてもいい

お前はこの雪国の中を汽笛を鳴らし

灰色の空にブラフトを響かせ

ただ一生懸命走ればいい

走りつづければいい

果てしなく、どこまでも、いつまでも、

1968年12月31日 833列車にて

【2743列車 五能線】
東能代駅を15時44分、20分遅れの2743列車は、左手に奥羽本線を見ながら右に大きく曲がり、大晦日の黄昏迫る北国の五能線を走り始めた。キハ11−13の車内は、夕方のためか結構混んでいたが私は幸い座ることができた。
発車してすぐに寝てしまったらしく、暫くして前の席に座っていた女性に揺り起こされ、「この車輌はここが終点ですよ。」と言われた。慌てて外を見ると《岩舘》(いわだて)の文字が見える。
後部の車輌はここで切離しなのだろう。礼を言って、一度ホ−ムに出て前の車輌に移る。東能代ではいっぱいであった乗客も、この先まで行く乗客は少なく車内はかなり空いたので日本海側に面した進行方向左側の席に座った。
車両はキハ22−340。外の気温とは違って車内は暖かく、自然と眠くなってくる。しかし、今度寝てしまうと深浦で起きる自信がないので日の暮れかかった北国、西津軽の土地を眺めていた。
五能線は青森県の西の外れ、日本海に迫った海岸段丘との僅かな場所を縫うように走っている。
途中の駅は殆どが無人駅である。北国の冬の夕暮れは早い。午後4時半なのに空一面を覆っている雲は濃紺色になっている。その色が積もっているというよりも、日本海からの強風で叩き付けられたような雪を青く染めている。その中に黒々とした枯れ木やススキ、岩膚がどこまでも続いている。
所々に黄色の裸電球が灯った数件の家並が、海と崖の間の僅かな平地に肩を寄せ合うようにひっそりと建っている。家並の後ろには黒くそして冷たい海が、北国の果てを思わす厳しい表情で水平線まで広がっている。
奥羽本線で話した横手の学生が、『冬になると雪で何もできなくなってしまうので冬眠同然の暮らしになる。都会の人には珍しいかもしれないが、自分にとっては雪は白い悪魔だ。』と言っていたのを思い出す。本当に大変な生活なんだろう。
2時間に1本の列車が唯一の交通手段だし、その列車も大雪になると運休せざるをえない。生活経験のない私には想像ができない。しかし、土地の人は明るい。車内でも大きな声で難解な津軽弁を話している。
私の斜め前の座席には、先程から若くきれいな女性が座って雑誌を見ている。秋田美人である。
暫くすると、その人の知り合いらしいおばさんが乗り込み、大きな声で話を始めた。どうも近所の人らしく、世間話をしているが方言、訛がひどく、早口で殆ど解らない。時々「わは−−−。わは−−。」といっている。
どうも「わ」は津軽弁で自分のことをさす言葉だと解ってきた。日本語のような感じではなく、外国語を聞いているようだ。
暫く話し込んだ後、その若い女性が大声で笑い「うんだべっさ。」と言ったのには少々がっかりさせられたが。
列車は約2時間かけて深浦駅に17時24分、23分遅れで到着した。

次回(深浦宿---五能線(行合岬)---東能代)に続く!

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