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C57・C62・D51の全兄弟のデータ集 SLデータ
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D51の全兄弟(D51の分類)

製造時概要
生産第一号は1936年2月29日汽車会社で産声を上げたD5114。そしてラストは1945年1月5日、D511161が日車で誕生している。約10年間で1115両が製造されている。
うち864,865号機の2両は樺太恵須取鉄道向け、D511161は日本窒素向けとして製造されたが当時の情勢で国鉄が引き取ったもの。また950〜954号機は胆振縦貫鉄道のD5101〜05号機として製造されたものの改番。さらに終戦直前に台湾向けに製造されたD5128〜32の5両は輸送できず国鉄の通しナンバーのD511162〜1166号機として一時、日本で走っていたが1946年に台湾に送られDT678〜DT682となった。
総製造数は台湾向けの37両、樺太向けの30両を付け加えると実に1182両が製造されたことになる。

形態分類
標準Aタイプ;1〜21,24〜85,91〜100。
通称「なめくじ」と呼ばれるグループ。全車動力逆転機付き。先台車LT126、従台車LT154B。テンダー8-20形(91-96は8-20A)。

標準Bタイプ;22、23。
スーパナメクジと呼ばれ、上のケーシングがキャブまであったが、後に標準なめくじ型に改装。

第一次量産試作形;86〜90,101〜106。
ナメクジ形を改良した試作機、キャブが230mm延び、重心を前に持ってくるために給水温メ器を煙突の前に移動した。

第二次量産試作形;107〜133。
従台車がLT154B形からLT157形に変更し、テンダーも8-20形から8-20B形の鋼板組立式台車になった。

第三次量産試作形;199〜211。
動力逆転機を手動のねじ式に変更。

量産形;134〜198,212〜745.748〜845,950〜954。
量産試作機で試された箇所がこの量産形として固まり、最も多い702両が製造。

準戦時形;746、747、846〜949。
戦争による資材不足でドームをカマボコ形になったり、ナンバープレート・デフ・テンダー上部が木製となったもの。また、一部には煙室扉をナンバープレとの上で切るものもある。

戦時形;1001〜1161。
準戦時形に比べ思い切った方法がとられ、炭水車を船底式の10-20形、台車も台枠が殆ど省略されたTL205。さらにはランボードの木製化、砂撒き管を2本にするなど簡素化されたものであったが、後に改造された。完全戦時設計で軍需要のためにボイラ圧が14Kgから15Kgへとアップ(後に全てのD51が15Kgになった)。そのために1001からのナンバーとなった。つまりD51950〜D511000は当初から存在していない。
  
主な装備改造
デフ板(煙除け板)
脇路弁工事の際に、デフ板を取り外さなくてもいいようにその下部を切り取った改造がなされ、小倉工場形、長野工場形、後藤工場形等がある。 小倉形は135・445・708・735・820・949・1038など。長野形は、95・109・405・473・501・824・862など。後藤形は、499・795など。その他変形デフとして、727・815・1017・1018・1095・1111・1127・1160・1161がある。さらには入れ換え専用としてデフを取ったものもある。

集煙装置
トンネルの多い区間を受けもつ機関区で装備。最初は敦賀機関区で考案された。敦賀式の他に、松任式、長野式、鷹取式、後藤式、鹿児島式がある。 最初のギーゼルエジェクター(誘導通風装置・Giesel Ejector、オーストラリアの特許で燃料の節約、速度の向上をねらった長方形の煙突)は、1963年3月に長野工場で349に取り付けられた。

砂巻き管
標準の装備は、第2動輪の前、第3動輪の前後(2,3a,3bと表記する)となっているが、中には若干の改造がなされている。 (1,2,3a)は3・92・352・523・588・617・619号機。 (1,2a,2b)は660号機。(1,2,3b)は535号機。(2,3のみ)は1028・1030・1031・1046・1049・1107号機。

動力逆転機
製造当初は、1から133に取り付けられていたが5%以内の僅かな速度調整には殆ど効果がないことが分かり、 1953年から55年にかけて取り外されたが、操車場での入れ換え専用などには残したものもある。

重油併燃装置
乗務員の苦労とトンネル内の煤煙を減らす為に1951年12月に北陸線、土讃線で取付開始。殆どが1500リットル、 1300リットルの重油タンクをテンダーに搭載。650・680の小さいタンクは蒸気ドームのすぐ後に付けられた。特殊は例としては名古屋区にあった200・686に円柱形のタンクが取り付けられたこともあった。

自動給炭装置
1仕業に5トン以上の石炭を消費する区間には機関助手を2名乗務させなければならない規定があり、 その作業緩和の為に1957年に常磐線用の20両に装備された。

タービン発電
前照灯を150Wから200Wにしたため、タービン発電器を500Wから800Wに変更したものがある。 また車内警報装置が全車両に付けられたため、100Wの発電器を別につけている。


エピソード
最初のD51
実はD5114号機が一番最初に誕生。1〜13号機は川崎車両で製造、14〜23号機は汽車会社で製造。そのうち汽車会社の14号機が1936年(昭和11)2月29日に落成した。

お召し列車牽引
1954年8月、北海道国体の時に、277(小樽築港)、333(函館)、484(旭川)が使用され、1961年3月の皇太子 の特別列車を786(甲府)が甲府ー松本間を牽引している。また1971年に新見区の837が伯備線で使用。758が予備機として装飾された。

重大事故
1140号機:1948年3月15日、奥羽本線陣馬ー白沢間でボイラー爆発事故。
339号機:1948年4月24日、東北本線浪打ー野内間で野内川に転落。
364号機:1962年5月3日、常磐線三河島事故。
651号機:年代不明、当時の下山国鉄総裁を三河島付近で轢断。

最短命のD51
1944年11月30日落成で、1947年6月25日廃車のD511048。2年6ヶ月26日の短命で原因は不明。

最後のD51列車
1975年12月24日、追分機関区所属、A16仕業(1086号機)、A10仕業(465号機)、変A6仕業(603号機)、A17仕業(241号機)。最後の列車はD51241の牽く夕張線6788列車。


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